浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺

会津藩と黒谷と新選組

新選組発祥の地

新選組発祥の地

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(1862)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。

文久二年閏八月一日、會津藩主松平かたもりは江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。
會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「きん」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。

これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日午前九時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。
この間、京の町衆も両側に人垣を作り大歓迎するのであった。

ではなぜ、黒谷金戒光明寺が本陣に選ばれたのであろうか。その理由として、次の三点があげられる。

本陣に選ばれた
3つの理由

新選組と會津藩の関係は、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
文久三年二月八日江戸小石川伝通院に集合した二百四十余名の浪士組は中山道を通り、京都へ出発した。同二十三日京都の壬生へ到着、生麦事件発生により清河八郎他二百余名は江戸へ帰ることとなり、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望し、三月十日老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出、同十二日京都守護職御預かりとなった。
翌十三日に浪士組の清河等は江戸へ帰った。同十六日には近藤・芹沢等は黒谷で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。八月十八日の政変(七卿落ち)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。
新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていた。

このような時代背景で黒谷を通じ會津藩・新選組の関係が成り立ったのである。
現在の黒谷金戒光明寺は、昭和九年に御影堂・大方丈が火災により焼失してしまったが、その他の建物は往時のままである。

山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』が有り、文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。
墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。
會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。
會津小鉄は本名こうさか仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。

しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

現在西雲院では、六月の第二日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家第十四代当主松平もりひさ様ご列席のもと京都會津会主催で盛大に勤められている。

會津藩松平肥後守 京都守護職本陣旧跡 くろ谷 金戒光明寺